ノリノリ狂言生活

◎  『鍋八撥』ふりかえり~その2~ 

今回の「国立狂言の会」は、初番が大藏家、次いで万作家、留めに茂山家。これはまさに立合いですね。年を重ねるたびに、こういった会にプレッシャーを感じます。良い刺激です。さらに、お客さんも違います。異流合同?でしたね(笑)いつもと違う雰囲気をひしひしと感じておりました。
『鍋八撥』を演じて感じたことをつらつらと書きます。
・役の対比
父演じる浅鍋売りと、僕が演じる鞨鼓売り。この対称がしっかりとしていないと見ていて面白くないと思っていました。年齢もありますので、こちらはキビキビハキハキと。父が柔らかく、僕は硬く。といった具合でしょうか。それは後々の「鞨鼓」の相打ちの場面に活きてくると思います。
・脇狂言の癖
この演目は脇狂言。脇狂言の特徴は構成が丁寧。同じセリフを何度も繰り返します。昔は良かったのかもしれませんが、現代では丁寧すぎるのでは?という疑問。聞いている方も「
」という声が聞こえてきそうでした。どうにかならないものかなーと。
・目代の役目
仲裁に入る目代。現代で言えば警察官。目代が仲裁に入るような似た演目はたくさんありますが、ここまで優柔不断な目代はこの曲くらいではないでしょうか?しかも最後は「鞨鼓を相打ちにしなさい」と言って、そのまま退場。釈然とはしませんが、これは本番中に舞台上で思ったのですが、この優柔不断さが面白い!忠一郎伯父ならではの味だったと思います。僕がイメージした目代とは違っていて、途中でその面白さに気付き、こちらも「イヤ申し」「問うてくだされい」「言うてくだされい」など、ちょっと強気というか嫌気というか(^_^;)そんな気持ちが湧いてきました。
・大藏家の特徴
色んな家が存在する狂言界ですが、大藏家の特徴はなんだ?と聞かれたら、数年前までは答えられずにいました。というか、あまり意識してなかったし、共演競演の機会も少なかったわけですから。5年ほど前から、両流各家が一同に会して催す「立合狂言」という会が始まり、そこで観て下さった方々にお話を聞くと、大藏家は「型がきれい」との事でした。客観的にみるときっとそうなんでしょうね。なので、「型」を綺麗に演じようと心掛けていました。棒を振る場面、鞨鼓を打つ場面。舞を舞う時の体の使い方に意識していました。また、個人的に大藏家は簡素で質素だとも思います。派手な動きはないけれど、削ぎ落とされた少しの動きの中に、ゆとりを感じてもらえるのではないでしょうか。言うなれば「奈良」です。豪華絢爛ではないけれど、天平時代の都であった優美平明な素の美しさではないかと思います。そんな事を意識して。
・飛ぶ、回る
これは前回の記事にも書きましたが、側転は「攻め」ていきました(笑)また、鞨鼓を打つ場面では両足飛びする型があります。これは狂言では一般的な飛び方ですが、幼少期にいつも祖父や伯父や父に「高く飛べ」と言われてきました。飛んだら足を引きつけることが肝要です。飛ぶのは僕の得物です!これは誰にも負けません!!負けたくない!!!!高く軽く鮮やかに!!
・演目の解釈
どんな話?何を伝えたい?というのを、最近考えるようにしています。この曲はいったい何を伝えたかったのでしょうか?これは僕の勝手な解釈なのですが、もしかしたら差別がテーマだったのではと思います。
セリフにもあるように、「鞨鼓は子供から大人、貴族までが楽しむ事のできる遊び道具」であり、一方で「浅鍋は庶民的」なもの。鞨鼓売りは、「浅鍋などは市場の端っこで売れば良い」というような事を言います。商品を通してそれを扱う人への差別のように感じたのは僕だけではないと思います。本当は両方とも生活に必要であり、どちらも年齢性別身分問わずに親しまれていたものでしょう。例えば一流の…、例えば超有名な…、例えば誰もが羨むような…といった具合に、現代にも通じるものがあり、そんな境遇でも悩み試行錯誤し笑いながら生きる当時の人々の逞しさが描かれているのではないかと思います。(しかも目代も優柔不断(ToT))
基本的に、狂言に登場する人物の中で大事なのはアドだと思います。よくよく考えるとアドの方が問題を抱えていたり、意地悪な人だったり。シテの気持ちよりも、アドの立場になって考えた方が、色々見えてくる。僕はそんな風に考えています。
また機会を見つけて演じたいですね!
おわり

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